Cutemen

Picorin(ピコリン)

1969年6月6日 福島県西白河郡 双子座、Rh(-)A型

CMJK(シーエムジェイケイ)

1967年8月21日 宮城県仙台市 獅子座、B型

【Histry】

元々The Cutemenというのは、北川潤(CMJK。以下北川)が地元仙台で高校生の頃にやっていたネオ・サイケバンドのバンド名であった。

The CureとEcho&The Bunnymenに影響されたそのバンドは、当初バンド名を「Curemen」にしようかとも考えたがそれだとあまりにもそのまますぎるので「Curemen」の「r」を「t」に変えてThe Cutemen、とした。時は1983年、CMJK高校1年生の頃のエピソードである。(その当時の動画 : http://youtu.be/ZcfXKVYAVgo )

1987年、仙台での人気と動員、自主制作盤の売り上げ好調を誇ったThe Cutemenは、満を持してバンド全員で上京。ところが東京に知り合いもいなければコネも無かったので、ライブハウスの昼の部のオーディションを地道に受ける日々が始まる。全てのライブハウスのブッキング担当から異口同音に「洋楽っぽ過ぎる」と言われたThe Cutemenは東京のロックシーンに失望し失速していく。

北川は御茶ノ水の伝説のレンタルレコード店「JANIS(ジャニス)」でブラックミュージックの仕入れと取り扱いの担当のアルバイトをしながら、それまでの音楽的基礎であったポストパンク〜ニューウェーブ以外にもファンクやソウル、ディスコ、ジャズ等の要素も吸収して行く事となる。

1988年、ユーロビートの衰退に代わってヒップホップ、ハウスが音楽シーンの

最前線にしてメインストリームに躍り出た。それと同時にそれらに影響されたインディーロックが台頭してくる。

いわゆる「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の始まりである。

セカンド・サマー・オブ・ラブの始まりをバイト先のレコード店或いは遊びに行ったクラブでいち早く体感していた北川はバンド活動に終止符を打ち、長期ローンを組んでRoland MC-500というシーケンサーと、当時はまだ珍しかった

マルチ・ティンバー音源モジュールであるRoland D-110、マスターキーボードとしてYAMAHA DX-7を購入し、バイトで疲れて帰っても必ず1日1曲を打ち込みで作る、という目標を立て実行して行く。

楽曲が溜まってきた北川はまずはバイト先の壁にメンバー募集の張り紙をする。内容的にはハウス、ヒップホップ、エレクトロニック・ボディー・ミュージク、デペッシュ・モードを好みます、Vo募集、というものであった。

しかし待てど暮らせど誰からも一向に連絡は来ない。北川は同じ内容のメンバー募集を都内の主要なライブハウス、リハーサルスタジオ、輸入レコード店に貼って周る。

数ヶ月が過ぎた頃、JANIS常連の挙動不審の危ない客、通称リマールが、レジに立っていた北川に、朴訥とした東北訛りで話しかけてきた。

「あのう、貼り紙見たんですけど、潤さんですよね?僕じゃダメですか?」

リマールは常に逆三角形シルエットのニューロマンティックでデュランデュンランな衣装に身を包み、髪の毛を立て、当時の流行であった今は亡き「おでこ靴」を履き、常に薄笑いを浮かべ店内を徘徊しにくる変わった客としてJANIS店員の間では有名だった。

うわっリマールに話しかけられた!やっべえ、危ねえ、関わっちゃいけない。

どうやってこいつから逃れよう?ということしか頭に無かった北川は、

「歌えるの?もしデモがすぐ聴けるなら考えなくも無いけど、今デモなんて持ってないでしょ?デモ作ったら持って来てよ。」

とリマールを冷たくあしらった。

するとリマールはおもむろに派手なカバンからウォークマンを出し、「良かったら聴いてください・・・」とイヤホンを北川に差し出した。

北川は愕然とした。こんな声で、こんな風に歌えるヴォーカリストが日本に居たとは!まんま、デペッシュモードのデビッド・ガーンじゃないか!!

デモを1コーラス聴き終わらない内に北川はリマールに握手を求めた。

「すごい!一緒にやろう!」

リマールは福島出身、音楽のおの字も知らずにオールインワンシンセを買い、千代田工科芸術専門学校のポップミュージック科に入学してしまい上京。本名を板垣善憲といい、年齢は北川の2つ下だった。

専門学校での入学初日の自己紹介で「福島から来ました板垣です。ピコピコ音楽が好きです」と言ってしまったばかりに、専門学校の同級生から「ピコリン」と呼ばれる事となる。

北川とリマール改めピコリンはデモ制作とリハーサルを開始する。当時ピコリンが住んでいた

調布の近隣の多摩川で、よくハモリの練習をした。二人は初期〜中期デペッシュモードに倣い

打ち込みと有機的な肉声を両立させることを目指した。それだけではただのデペッシュモード

劣化版になってしまうので、その当時の最先端のハウスやテクノのエッセンスを注入することも目標とした。

ユニット名は良いのを思いつかなかったので、北川がやっていたバンドThe CutemenのTheを

はずして「Cutemen」とした。

ほどなくしてCutemenは錦糸町のライブレストランの箱バンとなり、毎週通っては夕方から終電くらいまでのロングステージをこなした。その他にも何故か対バンスタイルのライブハウスイベントとかには出ず、画廊でライブをやったりと独自の活動をして行く事となる。

そうこうしてる内に、もうすっかりその事を忘れていた、かつて北川が都内中のライブハウス等に貼りまくったメンバー募集に、唯一、只一人応募してきた人物が現れた。石野卓球である。

エレポップバンド「人生」の活動を終わらせた石野は電気グルーヴという新ユニットを始めるので北川に手伝ってほしいと言う。

音楽的なルーツもその当時聴いていてのめり込んでいたものも近かった為、北川は「別にバンド2つやってたっていいか」と軽く考え引き受ける。

北川加入後1年程で、電気グルーヴはメジャーデビューする事となる。

電気グルーヴジャーデビューにあたり、プロモーション用の資料を作る為、北川は芸名を名乗ることを余儀なくされる。明日まで考えてこないと「源五郎丸(ゲンゴロウマル)」にするからな、と言い渡される。

当時の雰囲気に沿って、一人なのか複数人なのかわからない、記号のような名前がいいな、と考えた北川は、その時尊敬していたイギリス出身の黒人DJでDMCワールドチャンピオン、カットマスター・スウィフトにあやかって、Cut Master JK (JKは本名のイニシャル)と名乗ることに決めて、翌日電気グルーヴのソニーの担当ディレクターにその旨を伝えた。ところが石野卓球が描いた自画像とピエール瀧と北川の似顔絵のイラストが表紙の、出来上がってきたプロモーションシートには北川の名はCut Master JKではなく「CMJK」と書いてあった。

何故Cut Master JKではないのかを問いただした北川にディレクターは一言言った。

「長えよ!」CMJKの誕生である。

その後の電気グルーヴの快進撃はここでは割愛させて頂きますが、1stアルバム制作の為訪れたマンチェスターでの、ニューオーダーを擁するレーベル、ファクトリーが経営する伝説のクラブハシエンダ、数万人に埋め尽くされたGメックスでのハッピーマンデーズのライブ、毎日ラジオから流れてくる初めて聴く刺激的な音楽等を体験し、CMJKはマンチェスタームーヴメントに大きく影響を受ける。

とりわけCMJKに大きな影響を与えたのは、マンチェスター滞在時に隣のスタジオで作業をしていたCandyflip(キャンディーフリップ)の存在であった。それまでのポストパンク〜ニューウェーブ的な感性を一度リセットし、新しい刺激的な時代の流れに身を投じるつもりでいたCMJKではあったが、自分と同じ年齢くらいのキャンディーフリップは、80年代的なポストパンク〜ニューウェーブ的な感性を捨てないまま90年代の最先端の音を鳴らしているじゃないか!という衝撃を受けた。

ミニマルな反復音だけがテクノじゃないんだ、メロディーをつけてもいいんだ、コード進行が

動いてもいいんだ、自分で新しいルールを作ったってかまわないんだ、いいなあ、自分もそれがやりたい!という衝動に駆られてしまった。

ほどなくしてCMJKは1stアルバムのリリースとツアー終了後に電気グルーヴを辞めてしまう。CMJKが電気グルーヴで忙しくしていた頃、ピコリンは「E-Force」というイベントを主催し、自らも「Sooty Tool(スッティー・ツール)」というソロユニットでライブをやっていた。

E-Forceはタカハシテクトロニクス、PC-8、DEPT-SK等のレギュラーメンバーを抱え、動員も毎回大盛況で、東京のアンダーグラウンド・テクノシーンの礎を築いていた。

CMJKがアンダーグラウンドのクラブシーンに戻り、CutemenはE-Forceを中心に活動を再開する。

その後Cutemenは多方面のイベントに引っ張りだことなり、ソドムや山本リンダ、MORE DEEP等と対バンを重ね、ソニーから出たオムニバス「TOKYO HOUSE UNDERGROUND」に参加、「Waiting for love」を収録する。

Cutemenはそのままソニーと契約、デビューするのかと思われたのだが、毎回ライブの度に楽屋に顔を出し、セッティングやバラシを手伝ってくれ、打ち上げの手配までしてくれる謎のお兄さんが現れる。最早そのお兄さんが居ないとライブが出来ない、というくらいの信頼関係が出来上がっていった。お兄さんはビクターのディレクターであった。

Cutemenはビクターと契約する。

デビュー曲「Love Deeep Inside」は藤井フミヤ氏と本木雅弘氏が司会のTBS系列恋愛バラエティー「鎌倉恋愛委員会」のオープニングテーマ曲であった。

(ちなみに同曲「Love Deeep Inside」は関西のローカル・アダルト深夜番組「大人の絵本」でもオープニングテーマとして使われていたが、無断使用であった為Cutemen側から使用の中止を求めた)

Cutemenはシングル3枚、ミニアルバム2枚、フルアルバム2枚をリリース、ライブでも渋谷公会堂ワンマン、SHAMEN、808state等のオープニングアクトを務める等目覚しい活躍を見せたが、1994年、活動を中止する。

その後何度かの単発再結成をし、シングルを2枚リリース、何度かのライブも行ったが、結成25周年の今年、2016年、満を持して完全再結成、再活動を発表。新作のリリースとライブの予定をアナウンスする。